CONCEPT

群馬県沼田市出身で8000m峰14座のうち9座に登頂している伝説のアルパインクライマー、 世界の8000m峰完登を目前にして冬のマッキンリーに逝った山田昇氏を顕彰して、20回にわたって開催されていた「山田昇記念杯登山競争大会」から、 海外のウルトラトレイルレースに通じる本格的山岳コースとして、技術難易度の高いレースが臨める「上州武尊山スカイビュートレイル」へリニューアルした。


「登山」を基本として10Kgの負荷を背負って競う「山田昇記念杯登山競争大会」のスタイルから、昨今道具の進化も進み軽量化されていくことも踏まえ、必携品を携え競うレースへと進化させた。
山田昇氏と三枝照雄氏、両者の業績を讃え本大会でも「山田昇杯」と「三枝賞」を設け、次代を背負う若者の活躍の励みになるよう引き継いだ。


コースは日本百名山・山岳信仰の山でもある上州武尊山(2158.3m)の雄大な眺めを楽しみながら、 その周辺町村、川場・みなかみ・片品を巡るコースで、本大会の為に伝説の古道や埋れた登山道を復活させた厳しくもロマンあふれる「旅」が楽しめる自然豊かなトレイルです
順位やタイムといった結果だけでなく、上州武尊山とその自然が育んだ素晴らしい景色を楽しんでいただき、 愛される大会として育てていきたいと願っています






山田昇記念杯登山競争大会とクライマー

1990年より開催されてきた「山田昇記念杯登山競争大会」。
その起源である山田昇氏らの遭難から30年近い歳月が過ぎ、多くの方々の記憶から彼らが成し遂げた功績が薄れてしまった感すらある。そこで改めて山田昇氏と三枝照雄氏について紹介したい。



山田 昇 (やまだ のぼる)
1950年(昭和25年)2月9日 - 1989年(平成元年)2月24日
日本のヒマラヤ登山家。群馬県沼田市出身。
8000メートル峰14座のうち9座に12回登頂し、その多くを冬季や、未踏の難ルートからの登攀で達成している。 8000メートル峰9座登頂は、名塚秀二、田辺治、近藤和美と共に、全14座達成の竹内洋岳に次ぐ日本人2位の記録。冬季マッキンリー登攀中に、不慮の遭難死を遂げる。
山田昇記念杯にその名を残し、生家には記念館としてゆかりの品が保管されている。

「登山家としては出来すぎなペンネームのような名前であった」と本大会関係者の八木原圀明は語る。
彼が遭難死した1989年当時8000m峰14座登頂を成功していた登山家は1986年秋ローツェ(8516m)登頂で達成したラインホルト・メスナー(42歳、イタリア)と、 翌1987年秋にシシャパンマ(8027m)で達成したイェジ・ククチカ(39歳・ポーランド)のみで、山田昇氏は9座12回世界中で3番手につけていたのである。
スイスのマルセル・リュエディは1986年秋12座目のマカルー登頂の翌日肺水腫になり、生きてBCまで帰れなかった。
彼の亡き後3人目の完登者出現は6年を経た1995年のカンチェンジュンガ(8585m)で終えたエアハルト・ロレタン(36歳・スイス)であった。


1978年 ダウラギリI峰[南東稜](未踏ルート/8,167m/ネパール)初登頂
1980年10月2日ケダルナートドーム(6,831m/インド)登頂
1981年5月9日カンチェンジュンガ主峰(8,586m/ネパール)登頂
 ランタンリ(未踏峰/7,239m/ネパール)初登頂
1982年10月18日ダウラギリI峰[北壁](未踏ルート/8,167m/ネパール)初登頂
 マナスルで隊員1名が遭難し、登頂を断念。
1983年10月9日ローツェ[西壁](8,516m/ネパール)登頂
 12月16日エベレスト[南東稜](8,848m/ネパール)登頂
  ※ローツェ、エベレストで登攀隊長を務め、世界的ヒマラヤ登山家としての評価を固める。
1984年春 ~ 夏マモストンカンリ(未踏峰/7,543m/インド)登頂
 アンナプルナI峰[南壁]登頂失敗
1985年K2[南東稜](8,611m/パキスタン)無酸素登頂
 11月3日エベレスト[東南稜](8,848m/ネパール)無酸素登頂。
映画『植村直己物語』撮影隊の一員として。
 12月14日マナスル[ノーマルルート](8,163m/ネパール)無酸素登頂
1986年モンブラン登頂
1987年マッキンリー(6,194m/アメリカ)登頂
 12月20日アンナプルナI峰[南壁](8,091m/ネパール)登頂。下山途中、小林・斉藤が滑落死亡。
1988年5月5日チョモランマ・サガルマータ三国合同交差縦走隊に参加し、登頂。
この様子は日本テレビ開局35周年記念特番『チョモランマがそこにある!』で山頂から生中継されたが、山田ら縦走隊3人のペースが予想外に速かったことと、 TV撮影隊員の出発・到着が大きく遅れたために山頂で1時間も待機したが、頂上で落ち合えず中継されたのはTV隊の3人だけだった。
 6月10日1年間で5大陸最高峰登頂を目指しマッキンリー(6,194m/アメリカ)登頂
 7月ヨーロッパ・アルプス、モンブラン(4,807m/フランス)などを登頂
 9月5日アコンカグア登頂
 9月16日アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ登頂
 シシャパンマ(8,027m/チベット)、チョ・オユー(8,188m/チベット)無酸素登頂。
8000m峰9座12回登頂。
1989年2月7日モンブラン冬季単独登頂
 2月16日小松幸三、三枝照雄と3人でマッキンリーへのアタックを開始。
 2月20日アタックキャンプに入る
 2月21日~22日悪天候のため、アタックキャンプにとどまる
 2月23日山頂に向かうが、行方不明に。3週間後に、約5200m地点でアンザイレンした3人の遺体が発見・収容される。
   
1990年功績を称え、生家のある沼田の名峰武尊山において、山田昇記念杯登山競争大会が毎年9月に開催される。


三枝 照雄 (さえぐさ てるお)
1958年 - 1989年(平成元年)2月24日
日本の登山家。群馬県出身。
群馬県立沼田高等学校で山岳部に入部し、山に取り付かれた。
彼のヒマラヤへの憧れは高校1年生で参加した県総体で見た、群馬県山岳連盟のダウラギリⅣ峰登山(1972年)を撮影した8ミリ映画の空の色だった。 「自分のこの眼であのヒマラヤの紺碧の空を見たい」であり、「行くぞ」という意志に変わったのは大学山岳部2年、1979年であった。
1988年5月5日、日本テレビの開局35周年番組『チョモランマはそこにある』にテレビクルーとして参加し頂上からの生中継を成功させた。
しかし、1989年2月、マッキンリーで山田昇、小松幸三とともに遭難死を遂げる。
彼のヒマラヤ登山は全て山田昇氏と一緒であった。
山田昇氏の14座完登への残り7座登山の全てに同行することになり、彼自身8000メートル峰14座のうち4座、5回登頂者となった。


1985年 11月3日 エベレスト[東南稜](8,848m/ネパール)登頂。
映画『植村直己物語』撮影隊の一員として。
1987年12月20日アンナプルナI峰[南壁](8,091m/ネパール)登頂。下山途中、小林・斉藤が滑落死亡。
1988年5月5日チョモランマ・サガルマータ三国合同交差縦走隊に参加し、登頂。
この様子は日本テレビ開局35周年記念特番『チョモランマがそこにある!』で山頂から生中継されたが、山田昇氏ら縦走隊3人のペースが予想外に速かったことと、 TV撮影隊員の出発・到着が大きく遅れたために山頂で1時間も待機したが、頂上で落ち合えず中継されたのはTV隊の3人だけだった。
 シシャパンマ(8,027m/チベット)、チョ・オユー(8,188m/チベット)無酸素登頂。
1989年2月16日山田昇、小松幸三と3人でマッキンリーへのアタックを開始。
 2月20日アタックキャンプに入る。
 2月21日~22日悪天候のため、アタックキャンプにとどまる。
 2月23日山頂に向かうが、行方不明に。3週間後に、約5200m地点でアンザイレンした3人の遺体が発見・収容される。
   
1990年山田昇記念杯登山競争大会に、次代の発展を願って19歳未満の部として三枝照雄賞が設けられ開催される。